萬覚書

Carpe Diem. Seize the day.

年の瀬の所感

20歳くらいの頃までは鬱屈した感情をエネルギーに変えていたが、20代後半の今ではそれが出来なくなった。野球部の朝練と夕錬を終えた後に走り込みやトレーニングや素振りをした中学時代、夕方までのカリキュラムを終えて22時まで自習室で勉強に勤しんでいた浪人時代のように、何となく感じていたメランコリーを向上心に昇華させることが、20代後半になってから全くなくなったのである。日常の鬱屈やフラストレーションは俺の場合は格闘技や車の運転で発散できるのだが、発散とはそれっきりで終わるものであって、前進するための燃料にならない。したがって今の俺に必要なのは、その場限りの発散や気分転換でなく、自分の不甲斐なさを見つめてそれに対して怒り打破しようとする気力である。

平日の、いや休日も含めて街や電車の中では、疲れた顔、くたびれた服装、だらしない体が非常に多く散見される(多く散見は二重表現である)。「あんな大人になんかなりたかねぇと誰もがあの頃噛みしめていたくせに」(長渕剛・captain of the ship)、油断すれば俺もあの風景に同化してしまう恐れは常にある。ウルフルズバカサバイバーの中で歌う「ほれみーあのオッサンの顔、お前もあんななってまうよ」という顔は、鬱屈が全身に駆け巡っているような顔である。

柔道で鎖骨を骨折して動けなくなったため、久しぶりに読書をしていた期間があった。三島由紀夫豊饒の海・春の雪を読了し、現在は第二巻である奔馬を少しづつ読み進めている。また「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を2年前に読んで感銘を受けたので、「木村政彦外伝」を購入した。そこで読書の意義、特に実用書とは違う本を読む意義のついて改めて考えさせられた。俺にとって読書とは教養のためでも他人にマウントをとるためでも人格の陶冶でもなく、新しい概念や言葉が織りなす感覚から世界を再認識して、閉塞感や行き詰まりから打破するためのものであるように思う。「思う」という表現を使っているように、読書の意義について確信はないが、少なくとも今はそのように思う。

柔道で目が覚めることがあった。
一つが全国優勝のキャリアを持つ若い軽量級との乱取り。身長165cm程度で体重56kgと小柄であるが、奥襟を持って内股や足技で豪快に投げるタイプで、自分よりも大きな相手にも腰をひかないスタイルである。俺との乱取りも軽量級同士ということでスピード勝負になったが、完全に組み負けて何もできなかった。すでに強いが週3回程度練習しているという点で、今の俺では追い付かないことを痛感させられた。もう一つが35歳で中学時代以来柔道を再開したという人との乱取り。復帰した当初は全然体力が無かったとのことだが、週4,5回真面目に練習しているということで実際にスタミナと筋持久力が高く、俺も乱取り中に体力と根気負けした。と同時に体のバランスが良い上に技に対しての反応が早く、背負い・内股・隅返し等々の技を全てかわされてしまった。35歳という年齢でも真面目にやればまだまだ強くなる余地があるということだ。

11月〜12月にかけて、ブランド直営店、御殿場・幕張・酒々井・入間のアウトレット、阪急メンズ東京や伊勢丹メンズ館などを巡って、ブルゾンやナイロンジャケットやニットや財布等々を購入。普段身に身に着けるものの質を上げることで、日常生活の満足度が明らかに違ってくる。飲み会等イベントへの参加を最小限に留める、若しくは必要以上に削ぐことで、美しいアウターが手に届き、且つそれを纏って街を歩いているだけで高揚感を持つことができる。寂しさを紛らわせる人付き合いをするくらいなら、好きなアウターを着て一人でカフェに入ってホットココアを飲んでいる方が断然良い。

コミュ障として人付き合いがない分、ファッションやドライブにお金をかけられるのは大きな利点である。これからも積極的コミュ障として活動領域を広げていきたい。